今どきのお産事情
消費化社会の中で

 妊娠、出産、育児は女性にとってすでに趣味の領域に入ったと言われている。子どもを育てることによる社会的リスクを考えれば、そこに意義を見いだすとすれば、もはや趣味的な感覚でしかない。いかにその趣味的な部分をくすぐるかということを考えていかない限り、少子化に対する解答は得られなくなっていくだろう。

 自分のことを考えてみても、戦略的に子産みが利用されることを嫌ってきたし、それにはまった自分もいる。その中で、趣味としての部分を追求してきたのかもしれない。
 お産について語ることが、政治的なこととされるから、よけいに語ることをためらっている女性もいるのだろう。

 からだがバラバラになっている感覚が広がっていくと、妊娠したいときに妊娠できないという現象が起こるかもしれない。反対に、貸し腹に抵抗のない女性が増えるかもしれない。
 精子を買えるようになってもなお、女性のからだを通してしか妊娠、出産ができないという事実は、これまでそれを女性によっていたことを示している。社会はまだ、女が産むものと楽観視していた。

 人工子宮の開発を急ぎつつ、産むという行為が職業で請け負う作業になっていくかもしれない。産める人間が産む。それは男性が嫌うから、家族幻想を死守することが政治的な戦略として残っていくしかない。
 けれど、一方で人間の生まれ方という側面から考えると、これは議論されなければならない問題である。まだ、社会は女が産むと思っている。趣味的に産み、生まれてくる場合は別に、再生産を望む社会に必要な人間を産むみ出す場合の、そのヒトの生まれ方は、死に方と同じように、議論が必要だ。

 死の先に、この世での人生はないけれど、生まれ方のあとに人生ははじまるのだから、その影響について考える必要がある。
 そうしたことを将来的に含みながら、世界各地でお産について論議されている。出産、誕生の場だけではなく、産むを期待されている女たちが、このままいくと産まなくなるのではないかという危機感がある。

 今、たとえ結婚や子どもをもつということに夢を抱いてい電脳の海に漂よう少女たちがいたとしても、からだへの自己認識が欠如していることで、産むということに関してまったく楽観視はできない。とりあえず人工的であっても妊娠さえすれば、産むことはテクノロジーが可能にすることはできる。けれど、そこに彼女たちは悦びを見いだすだろうか。悦びのないものは続くとは思えない。 それがなんでなのかということを、もっと考えてみる必要がある。
管理された分娩室の中で何かが失われたと感じる女性たちがいるように、自分のからだを通してできるだけ自然に産みたい、生まれたいとする人たちのニーズは消えることはないのではないかと思う。ボディ感覚は、からだに刻まれた記憶として、そう簡単には消えないし、その出番を今か今かと狙っているかもしれない。
 地球は少々くたびれてきてしまっているけれど・・・。

 とはいえ、安全で便利で快適で、そして幅や奥行きの少ない無痛文明の中でも、よく人間は驚くようなことをしでかす。悪いこともするけれど、いいこともする。それは卵子が卵胞からはじけるように、ポーンといきなり飛び出してくる。そんなダイナミックなところが、人間にはある。
 戦争を起こし、搾取し、ねたみ、領土を広げ、繁殖し、テクノロジーに酔いしれる。地球上で自分たちが一番偉いと思っている。この点に関しては、頭がいいとはいえない。アホなところもたくさんある。だからこそ自由でもある。
 ある人は「人間とは悪いことをしでかす生き物ものだ」と言い、ある人は「人間は基本的に悪い人はいない」と言う。たぶん、どちらも正しくて、結局同じことを言っているのだろう。

トピックス
2011.4.18

週末、一泊で、いわき市に行ってきました。
バスも通ったし、ホテルもほぼ通常営業に戻っています。

日曜日は、本当にいい天気で、お花見日和。
避難所では、実際に炊き出しでお花見会をやっていました。
いわき市も、海岸線は津波でほとんど壊滅状態です。

34万人のいわき市は、
一時、半分ほどの人々が市外に避難したそうですが、
今月はじめあたりから、街中は、人が戻ってきています。
人はマスクをせずに、街を歩いていますし、
表面的には平常に近い生活のように見えます。

人々は放射線物質が心配ではありながら、
普段どおりの生活をしたい思いが強く、
あまり気にしていない様子に見えました。
東京人のほうが、ピリピリ反応しています。

とはいえ妊婦さんやお母さんたちは、
本当なんだろうか、と不安に思っている人もいます。
「レベル7」と言われたら、やはり心配になります。

福島県内では、原発安全教育が過去30年に渡って
周到に行われてきたといいます。
さらに多くの方々が東電や、関連企業に勤めています。

東京人にとっていわき市は、
すでに放射線圏内のイメージですが、
実際には、今は、福島、郡山のほうが放射線量は高く、
かなり安全圏になっています。

妊婦、赤ちゃん、母親だけ逃げると言っても、
家族がバラバラになってしまいます。

リスクは将来、ガンや病気になる可能性が高くなるということ
ですが、
暗く考えずに明るく復興を考え、
家族や親戚がこのまま仕事を続けるほうが安泰…
と思っている方は多いのかもしれません。

支援やボランティアは、だれのためにやるのか。
何が本当に必要なのか、必要とされているのか、
真剣に考える機会を与えてもらいました。


今どきのお産事情
おなかの子を愛せない

 母親と自分との関係が、からまった糸のようにほぐれずにいる人はあんがい多い。

 Bさんはクラスに初めて来たその日「おなかの子を愛することができない」と参加者の前できっぱりと言った。その発言は私の背中に、冷たい水を流していった。そのときの彼女の姿を今でもはっきり思い出すことができる。ためらいのない口ぶりは、目立ち始めたおなかにはそぐわないちぐはぐな印象を与えていた。
 母親の声はおなかの中の赤ちゃんに聞こえている。もちろん言語として理解しているわけではないけれど、声の調子や態度は信号のように伝わっていく。赤ちゃんはおなかの中で順調に育っていたけれど、その言葉が母と子をまた分離させたのではないかと心配になった。
 Bさんが国立大卒で弁護士事務所に所属しているエリートだということを知ったのは、あとになってからのことだ。彼女もまた自分と母親との関係をおなかの子どもにオーバーラップさせていた。
「小さい頃、母は仕事で忙しくて、かまってもらえなかったという思いがある。なのに彼女は娘の人生のレールを敷いて、私はその上を生きてきた。今も母親を許せていない。妊娠はしたけれどうまく育てていくことができるか不安なんです」
 私は彼女とふたりでフレンチレストランのランチを食べながら話していた。自分の意見を雄弁に語る彼女は、自信に溢れているように見えた。おなかの中の赤ちゃんについても照れながら少しうれしそうに話してくれた。胎児を嫌っているわけではなくて、彼女自身いっしょうけんめいに受け入れようとしているのだった。けれど、話が母親のことになると表情を曇らせる。
「母と同じように自分の子どもを育てようとはもちろん思っていない。その関係を私と子どものあいだにもちこまずに断ち切りたいと思っているんですが・・・」
 母と自分は違うのだから、違う子育てができるはずだと頭では理解していてもなお不安が残ってしまうのは、彼女がそこに血のつながりを見ているからなのだろうか。血の中、DNAの中に記されたぬぐいされない何かを。
 母になるという不安はだれもが抱えている。父親になる不安も同じようにあるけれど、それでも母は自分のおなかの中に子を宿すことによって、子どもをからだで実感することができるから、父親よりは親性は育ちやすい。多くの場合はだ。
 一方この、おなかの中に内包するという母の特殊性(これを母性というのかもしれない)は、ときとしておおいなる勘違いを産むことがある。子どもと自分が同化してしまったような錯覚を起こし愛情を降り注ぎながら、場合によっては愛情のないまま、子どもを自分のもののようにコントロールする力になってしまうこともある。勘違いとエゴをまぜこぜにして、子どもといっしょに飲み込んでしまうのだ。

今どきのお産事情
だれが子どもを育てるか

 子どもをもつということが、女にとってあたりまえでなくなったとき、それを選択することには理由や言い訳や、なんだかんだと理屈が必要になってしまったような気がする。けれど、妊娠や出産は本来、システマティックな社会とは別の世界に存在するものでもあるのだ。
 そんなに悩まなくても、好きなように人生を楽しんだりやりたいことを実現させていく中に子どもがいて、そこらへんにほっぽり出しておけばだれかが面倒を見てくれ、しかも危なくないという社会が、ずっと昔は世界各地どこにでもあったはずなのだ。
 それは農耕や狩猟をやっていたころ、仕事と家事や子育てが分離していない社会だった。

 ミクロネシアの小さな島にいったときのことだ。
 そこは小さな飛行機が二週間に一度やってくるだけの、地図に載っていない島。住民はトップレスに腰巻き姿で、今ものんびりと暮らしている。自家発電の電気はあるけれど、ガスや水道はない。私もこの島で二週間、住民と同じようにトップレスの生活をした。おかげでふだん見なれない、いろいろな年代の女性たちのおっぱいをしげしげと研究することができた。
 その島には子どもがたくさんいて、ビーチでよく遊んでいた。乳飲み子でないかぎり、だいたい子守りは上の子がやっている。六才くらいの子どもでも、赤ちゃんをじょうずに腰に乗せ脇に抱えて、お手のものだ。
 そんな風景の中では、赤ちゃんや子どもたちの母親がだれなのか、見分けることは難しい。さらに、親戚が同じ敷地内にまとまって暮らしているものだから、ファミリーの中には母親の年代に相当する女性たちが、これまたたくさんいる。夕方、女性たちは子どもを連れて海に入り、水浴びをさせるのだけれど、前の日連れていた子どもが次の日には違ったりするから、頭は余計混乱してしまう。
 ひとりの母親がひとりの子どもをベビーカーに乗せてうやうやしく公園にいって、自分の子どもだけをみつめて遊ぶなんてことは、この島では考えられないことだ。子どものほうは何か必要なことや困ったことがあれば、そばにいる大人に聞く。それが自分の母親や父親でなくてもいずれにしろ親戚なのだから、まったくかまわない。
 島では男の役割と女の役割ははっきり分かれている。たとえば、海への猟は女性禁止とか、男性の集会所に女性は立ち入り禁止とか。様々な驚くべきルールがたくさんある。これを男女差別とみるかどうかは別問題として、それでも島は母系社会なのだった。
 男性はいばっているようで、実は全員婿養子なのだ。だから家族の住む家は妻の実家の敷地内で、子どもたちは母親の姉妹や祖母に育てられる。
 女性は畑仕事や機織り、男性は漁や大工仕事。職住接近で、勤務時間に縛られることもない。働きながら子育てができる最高の環境だ。
 島に漂うおっとりした空気と時間。それは子どもと女と男と老人という幅広い家族の構成によって紡ぎ出される、家族の時間だ。

今どきのお産事情
できちゃった結婚

 そんな中で、「できちゃった結婚」というカップルもけっこういる。
 マタニティ・クラスにも何組かやってきては、「できちゃったんです」と頭をかきかきうれしそうに言う。その言葉には、つくるつもりはなかったんだけど失敗しちゃってという照れがにじみ出ていて、人間くささを感じさせる。人間ときには失敗もするし、それが思わぬ方向に転じることもあるのだ。
 なんだか今は、何をするんでもみんなじっくり考えて行動することが評価される。それこそ5年先10年先を見据えた上での合理的な人生設計だ。「できちゃった結婚」組は、気がついたら妊娠、さらに結婚までしちゃったのだから、人生の一大事を数ケ月のうちにかたずけてしまっていることになる。
 「そんなの無計画でいやだ」と思う人もいるかもしれないけれど、行き当たりばったりの人生というのは計画的ではないにしろ、まったく根拠のないことではないと私は思う。そこには無意識が働いているはずだ。無意識はからだのどこかに蓄積されていて、ふとした拍子に思考する脳を通らずに表にちゃっかり現われてくる。
 用意周到に合理的に考えたからこそうまくいくこともあれば、そうでないときもある。何も考えずに無意識にゆだねても、うまくいかない場合もあるかもしれないけれど、うまくいくこともある。人生なんてどのみち同じなのかもしれない。

今どきのお産事情
なんで子どもを産むのだろう

 子どもの数が少なくなったとはいえ、この国では年間に117万人もの赤ちゃんが誕生している。
 産むことも、産まないことも選択可能で、さらに子育てがしにくいこの時代に、女性たちはなぜ子どもを産むのだろう、あるいはなぜ産みたいと思うのだろうか。
 「自分の人生に幅をもたせてみるのもいいかなと思うようになった」と答えた人がいる。彼女は、40才を目前に高齢出産をした。仕事を思いきりやって軌道に乗せてから、40代以降の人生の後半戦に向けて新しい展開が欲しくなるという人はいる。いっしょに暮らす家族がもうひとり増えてもいいかなと思うときは、だれにでもあるかもしれない。
 「子どもを育てる経験をしてみたいから」と言う人もいる。
 彼女は、とてもドライな考え方をしている。たとえば、就職先を決めたり、家を買ったりするのと同じような人生の大きな帰路の選択のひとつに子どもがいた。あくまで自分の人生の中のスケジュールの中のひとこまに過ぎないというのだ。だから妊娠も計画的だった。

 「人のために生きる人生もいいですよね」と言った人もいる。
 この言葉を聞いたとき、正直言ってちょっとめまいがした。長年、子育てをしてきたけれど、はたしてそれが人のために生きてきたと言えるだろうかと、しばし自分の人生について考えてしまった。
 たしかに私は子どもや家族のために自分の時間をたくさん費やしてきたし、やりたいことを我慢して子どもの世話を優先しなければならないことはしょっちゅうあった。それは「人のために生きる」なんていうきれいごとではなくて、我慢と忍耐を養う人生修行のような感覚だった。子どもは小さいながらもその地域にしっかり根を下ろすから、親はそのコミュニティに縛りつけられることになり、子どもの時間を押しつけられる。おっぱいの時間、昼寝の時間からはじまって、保育園、学校、夏休み、運動会、病気などなど、数えればきりがない。
 しかしまあ、「人のために生きる」あるいは「無条件に受け入れる」ということは、子どもを育てることの大きな目的かもしれない。親にとってはそれを学ぶためという意味で。
 もちろんわざわざ子どもを産まなくても、自分以外の何かのために生きることや、思いやる心を養うことはできる。結婚しないで慈悲深い心をもっている人はたくさんいるし、ペットや動物を飼ったり、畑仕事やガーデニングに同じ思いを見いだす人もいるだろう。
 手間と時間をかけて受け入れ、見守り、手助けするということは女性的なことだ。子育てというのは、男にとっても女にとってもそうした女性性を耕す時間なのかもしれない。けれど、効率を優先させる合理的な社会の中では、ゆったりと時間のかかる女性性は評価されにくい。損得勘定を考えれば、子どもをもつことは合理的とは言いがたい。なにしろ子どもほど非合理な存在はないのだから。子どもをもつということは「そうした勘定をするのをやめなさいよ」と言われているようなものなのだ。

 「せっかく子宮という機能がついているのだから、使ってみたくなった」と言った人もいる。
 たまたま女性に生まれてきて持ち合わせた臓器。思春期になったころから、そこから生殖のための月経血が流されてきた。からだは毎月、今か今かと受精するのを待っている卵子を生産しているのに、それらはほとんど有効活用されず、月経はわずらわしさの種になっているだけ。だからまあ、一生のうち一回くらいは本来の機能を開花させてあげるのもいいじゃないか。未知なボディに挑戦したい誘惑にくすぐられることもあるのだろう。
 「子宮のリズムにからだが支配されているようにうずうずしたから」と表現した人もいた。
 これだけシステマティックになった世の中でも、月経の周期は月のリズムに呼応している。定期的にくり返されるからだのリズムは、ふだん意識していなくても女性のからだや心になんらかの影響を与えているに違いない。性的な感覚と同じように、からだがなんとなく『妊娠したい』と感じる人もいるのだ。
 こうしたボディ感覚こそ、妊娠、出産を語る上での大きなキーワードなのだ。

今どきのお産事情
母へのビジョン

 今や女性にとって母になる決断をすることは、崖から飛び降りるほどの人生をかけた出来事になってしまったのかもしれない。そこに生まれる責任と生活の変化などを考えると、なかなか思いきりがつかないのも当然のこと。子どもは一度産み出してしまったらリセットすることができないのだから。もうあとには戻れない。
 私自身は、「なぜ人は結婚するのだろう」とか「なぜ子どもを産むんだろう」などという哲学なしに生きてきたのだけれど、自分のことはさておき、ほかの人たちはなんで子どもを産むのだろうといつも気になっていた。バリバリ仕事をやっている女性が妊娠したりすると、「あなたのような人がなんでまた今なの?」などと、よけいなお世話なのだけれど聞いてみたくなってしまうのだ。
 こんなことを言った人がいる。
 彼女は中国語の教師。海外生活が長くて、今も行ったり来たりの忙しい生活を送っている。そんな彼女が三十才を前に妊娠した。
「タイの田舎に行ったときお世話になった家族がいて、そこには四人の子どもがいました。母親は市場で店を切り盛りしながら、育ち盛りの子どもたちをあたりまえのように育てていたの。市場にはそうした母親がたくさんいて、仕事をしながら平気でおっぱいをあげている姿を見ていて、子どもがいてもいいなあと思った」
 彼女はおおらかに子どもを育てている女性たちを見て、母親というはっきりしたビジョンを描くことができたのだという。その姿がとても自然だったから、子どもを産むことを彼女自身が受け入れることができたのだろう。
 今でこそ私は、キャリアを十分に積みながらカッコよく生きているたくさんの子持ち女性を知っているが、残念ながら妊娠した当時は「こんなふうに人生を送りたいなあ」と思わせる母親モデルはまわりには少なかった。
 子どもを育てながら、あたりまえに仕事をする女性たちがまわりにたくさんいれば、母というビジョンが膨らんでいくのだろうけれど、子どもと仕事を両方抱えながら涼しい顔をしていられるほど現実は甘くはないし、いのちを育む環境だって万全というわけにはいかなくなってしまっている。
 幼児虐待のニュースを横目で見つつ、無添加のおやつを子どもに食べさせ、「早くしなさい」とせかせて保育園に送り、仕事場では男性と肩を並べて働き、休みの日には夫のお尻をたたいてたまった掃除や洗濯を片付ける。いくら父親が育児をするようになったからと言っても、家事、育児に裂く時間は母親のほうがだんとつに多いのが現実なのだ。

今どきのお産事情
お産のイメージが変わる

 お産は日常的なこととは言えない特殊なシーンなので、イメージがつきまとう。

 あるアンケートによると、その多くが「陣痛」「痛み」「苦しい」「赤ちゃん」「生命の誕生」「喜び」など。どうしても暗いイメージが先に浮かんできてしまうようだ。
 「痛い」「苦しい」というのは、実際に陣痛のときにほとんどの人が感じることなのだが、中にはほんのわずかに痛みや苦しみを感じなかったという人もいる。痛みには域値というものがあって人によってその感じ方は違うし、同じ人でも状況や環境によってその程度は違ってくる。お産の前に「痛いよ〜、いたいよ〜」とさんざん聞かされていたり、ひとりで歯をくいしばって耐えなければいけないような孤独で不安な状況にあるのと、暖かな雰囲気の中で家族や医療者に見守られて、腰をさすってもらったり、言葉をかけてもらえる環境の中にいるのとでは、痛みや苦しみの感じ方は違ってくる。
 お産は「近所の病院へ行き」「分娩台の上で仰向けの姿勢でいきむ」「陣痛は死ぬほど痛く」「耐えなければいけない」「赤ちゃんは血まみれ」というようなことが、常識のように思われているようなのだけれど、そうしたイメージにしばられることによって、よりどころがなくなったり、苦痛がよけいに増してしまうこともある。
 私の知っているお産はぜんぜん違う。
 「産む場所の選択肢にはいろいろあり」「分娩台に上がらずに仰向けにならないこともできる」し、「陣痛の痛みをできるだけ少なく緩和する方法もあり」「ひとりで苦しんで耐える必要なんかまったくない」。「血のついていな赤ちゃん」はいくらでもいるし、セクシーなお産もある。いのちの誕生は身がもだえてしまうほどの悦びと祝福に包まれているものなのだ。

 もちろんいのちのことだから、何が起こるかわからないという側面もある。けれど、肉体的にも精神的にもボロボロに傷ついてしまうような辛さと引き換えに赤ちゃんがやってくるわけではないし、そうした辛さを乗り越えてこそ母性愛が育まれるなどというつまらない方程式があるわけでもない。産んで楽しく、生まれてくる赤ちゃんにとってやさしい、なんだかわくわくしちゃう幸せなお産というものがあるのだ。
 楽しいお産を体験すると、からだのどこかの扉が開いたみたいに、そこから新しい空気が入ってきて、ますます女がおもしろくなっていく。

今どきのお産事情
科学的根拠に基づいた産科学

 1990年代に入って産科学、助産学の世界で盛んに言われ出したのが、Evidence Based Medicine (科学的根拠に基づいた医療)である。
 お産の現場では、いろいろな産科学的処置というものが行われている。その中には緊急を要するものや治療を目的とした処置もあれば、危険な状況にならないように事前に問題を回避するために行う予防的な処置というものも含まれている。施設によってその内容は異なるけれど、すべての産婦に適応されることが多いルーティンと呼ばれる慣例的な処置もある。黙って座ればたいてい出てくる、ちょっとしたコースのようなものだ。
 過去10年ほどのあいだに、そうしたルーティンの処置がほんとうに必要かどうか、ひとつひとつを見直す動きが世界的に出てきた。
 WHOが1996年に出した「正常なお産のケア〜実践ガイドブック」では、科学的にみて有効な医療がどのようなものなのかということが検証されている。それによると、これまで多くの施設であたりまえに行われてきた処置の中にも、科学的な根拠に基づいて有効であるものと、そうでもないものが含まれていると記されている。これらは信頼できる数多くのデータに基づいて専門家によって検討されたものだ。
 たとえば慣例的に行われている剃毛、カン腸、血管確保、仰臥位での姿勢などは、有効性が認められない項目に記されている。明らかに有効で推奨されるべきこととしては、出産場所やケアについての情報と説明を受けて女性がそれを選べること、お産のときにはプライバシーが保たれ暖かいケアが受けられること、姿勢と動きが自由にできることなど。
 こうしたことから、日本の産科でもケアや処置の質の見直しがされるようになってきた。どんな科目でもそうだけれど、医療技術がどんどん進めば、その治療法は塗り替えられていく。もちろん産科の領域も、生命科学の先端医療では次々に新しい治療段階へ入っていってきているけれど、もともと病気ではない健康な産婦の自然なお産の場面では、医療テクノロジーは輝かしい業績として認められないこともあるのだ。科学的根拠を追求した先にパラドックスが浮かび上がってきたなんて、やはりお産はやっかいでおもしろい。

今どきのお産事情
お産選びのガイド

 「お産は病院で」が大多数になっているとはいえ、出産する場所はいくつかの選択肢がある。基本的に赤ちゃんはどこで生まれてもいいのだけれど、日本の場合、出生証明書を書く人は原則として医師か助産婦となっている。

 出産場所は病院、診療所、助産院、自宅、その他の五つのカテゴリーに分けられている。「その他」というのは、出かけた先のデパートだったり公園だったり駅の構内だったり乗り物の中だったり。ちょっと信じられない話かもしれないけれど、今の日本でもこうしたお産は存在する。興味深いことに、このようなケースのお産はだいたいにおいてとても軽い。あれよあれよという間に生まれてしまうから、施設に運び込まれる暇もなく現場で出産ということになるのだろう。

 病院というのは当然のことながら『○○病院』という名前で呼ばれている施設のこと。大学病院、総合病院、産科婦人科専門病院など。ベット数も二〇床ほどの小規模のものから診療科目がたくさんあるベット数一〇〇〇床を越えるマンモス病院までそれぞれ。
 かたや『○○クリニック』『○○産婦人科医院』という名称の施設は正式には診療所と呼ばれている。こちらは医師は一人以上、一般的に規模は小さいのだけれど病院と見まごうばかりに立派なところもある。助産院というのは、助産婦が運営している施設だ。もちろんこうした施設ばかりでなく、自宅で出産することもできる。
 施設にはそれぞれに特徴があるから、それを知った上で自分の希望やからだの状態にあった施設を選ぶことになる。
 ところがここで気になるのは、肝心な医療内容についての情報が少ないこと。病院の規模や外見、医師の対応、食事のゴージャス度、入院部屋のインテリアなどについては雑誌や口コミで伝わってくるけれど、ほんとうに知っておきたいのはそうした表面的なサービスより、どのような医学的管理が行われていて、その施設のスタッフがどのような考え方でお産に取り組んでいるかという医療内容とケアの質だ。

 病院というところは、そんなにしょっちゅうお世話になるところではないので、お産の場合はとくに医療内容やケアの質についてよくわからないまま施設を選ぶ人が多い。
 けれど、妊娠中は毎月一回以上通うことになるし、出産も産後もおつきあいすることになるのだから、その施設の考え方や内容を知った上で、自分の意向を伝えておきたい。健康な妊婦にとって妊娠、出産は病気ではないのだから、いくら設備が整っている施設であっても医療はあくまでサポーター役。産科テクノロジーが産ませてくれるわけではないのだ。そういう意味で、医療スタッフとのコミュニケーションをどのようにとっていくかということは、産む人の姿勢にも関わってくる。


































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