なんと、人間の赤ちゃんも生まれた直後に母親のおなかの上に乗せておくと、母親のおっぱいを探そうと動きだすと言われている。中にはずりずりと這い上がっていって、母親の乳首をくわえる(あるいはくわえようとする)赤ちゃんもいるという驚くべき話もある。
「そんなこと見たことも聞いたこともない」とだれもが思うこのお話。しかしこれもまた、まっこうから否定する根拠はどこにも見当たらない。実際、今どきの分娩室では、出産直後に赤ちゃんを母親の胸に抱かせる時間を用意している施設は少ないし、たとえ胸に抱かせたとしても、赤ちゃんが乳首を探り当てるまでじっくり待ってみましょうという時間の余裕をもてる人々はいないから、だれも見たことがなかったのだ。
これを日本に紹介したのはスウェーデン人のリグハート小児科医。その話を聞いて神戸にある助産院が実験したという話を聞いた。残念ながら私は、その実際を見たことはないのだが、ほんとうに赤ちゃんは乳首に向かってイモムシのように移動するのだそうだ。とはいえ、歩くわけにもいかない、腕の力もさほどもちあわせていない赤ちゃんにとって、母親のおなかの上を匍匐前進するにはそうとうな体力と時間がかかる。それでも腕と膝をつかって、赤ちゃんはなんとかずりずりと前進し、中には2時間ほどかけて実際に乳首に吸いつく赤ちゃんもいるらしい。
それにしても分娩台の上で二時間、匍匐前進する赤ちゃんをじっと辛抱強く待っているというのは、気の遠くなるような時間だ。陣痛のときの二時間とはわけが違う。たいていは、産んでしまったら分娩台から移動しなければならないし、医療者だって忙しい。第一それが今の社会に必要なことだとは到底思えない。だってわれわれは人間なのだ、動物じゃない。母親が赤ちゃんをすっと抱き上げて、乳首のところへもっていってあげることなど朝飯前。哺乳瓶でミルクをあげることだって簡単にできる。
けれど、ヒトとして生まれ、数10万年たった今でも、人間の赤ちゃんにはこうした動物的本能が、からだのどこかに記憶としてまだ残されているということは、脳のすみのほうを十分暖かく刺激してくれる。