大阪港からフェリーに乗り、私は土佐清水に向かっていた。
「フェリーで来てね」と言ったのは、 土佐に住む友人だった。気はすすまなかったけれど。なにしろ1泊の船旅なのだ。
朝。フェリーの着いた港は人陰もまばらだった。正月も終わり、世の中はいつも通りの、何もなかったかのようなそぶりを見せていた。
「よく来たね」
細かい雨の中を、友人ののりちゃんと、夫のコウちゃんが待っていた。のりちゃんは、長い髪を三つ編に結い、インド綿のロングスカートに、手編みのセーターを着ている。コウちゃんは、穴の空いたジーンズに綿の入った青いジャケット。今ではあまり見かけなくなった、70年代のヒッピーファッション。土佐清水の山の中の廃校の小学校を借りて、田舎暮らしをしていた。
妻は27歳、夫23歳。最近結婚したばかりで、その月には赤ちゃんが生まれることになっていた。私はのりちゃんの妊婦姿を写真に撮りたくて、わざわざフェリーに乗ってやってきたのだった。
小学校は海から少し山側へ入った、出会いという過疎の村にある。「出会い小学校」。全国を放浪していたふたりは、友人の住むその小学校に遊びに来て知り合った。なんだかでき過ぎた名前だ。そこに今は3組のカップルが住んでいる。
校舎は木造の平屋で、かわいらしい運動場が前に広がる。山間部なのに、学校の回りだけ、ぽっかり平地になっていて、校舎や運動場には日がよく当たりそうだ。のりちゃんたちは音楽室に住んでいた。その日は、1日中雨が降っていて、広い音楽室のガラス窓から、雨の落ちてくる乳白色にくぐもった空を眺めて過ごした。
雨の夜でも、その晩が満月だということはよくわかった。電気はあるにはあるのだけれど、彼らは節電のために、できるだけ電気を使わずに生活していた。音楽室には60ワットの裸電球がひとつ。ほかに小さなスタンドがあるだけだった。トイレは昔の小学校の便所だから、外にある。小さな渡り廊下を夜は真っ暗の中、懐中電灯をもって行かなくてはならない。そのときだ。真っ暗だと思っていた外が、ぼんやりと白く浮き上がって見えていることがわかった。月の光が、雨の雲を通して伝わってきていたのだ。便所や運動場や隣の作業室が、わずかな光で照らされている。満月は雨雲の上に存在しているのだ。
次の日、音楽室の中をスタジオにして撮影が終わると、のりちゃんが、「この先の山の中に、一人暮らしのおばあさんがいるの。このあたりは、ひとりで住んでいる年寄りの人は多いのよ」と教えてくれた。
過疎の村で、自然の真っただ中でぽつんとひとりで暮らす孤独感とは、いったいどんなものなのだろう。そして、そういう暮らし方をしてきた女性がどんなお産をしてきたのか、訊ねてみたかった。
昔といっても、そう遠くない昔。日本の女たちは、みんな自宅で出産していた。戦後何年かたってからのベビーブームの時代でもまだ、自宅出産が主流だった。地域で開業している助産婦が家々をまわり、お産を介助していた。そのうち時代は急速に変わり、昭和35年に自宅と病院などの施設分娩が半々となって、そのあとは雪崩を起こしたような勢いで、あれよあれよと言う間に、病院でのお産があたりまえのようになっていった。
でも当時の日本という国は、今のように交通も情報もアクセスが便利というわけではなかったから、山間部では昭和50年代でも自宅で出産していた人たちがいた。もっと交通の便のよくない山の中や離島では、助産婦がいない地域やいても難産にならないと助産婦を呼ぶ習慣のない地域もあって、そんなところでは介助する人もなく、産婦がひとりで、あるいは家族の見守る中で女たちは出産していた。
子どもを産むという行為が、施設で行われるようになって、その規模が大きくなればなるほど、それはまるで手術か何かのように生活からは遠く離れたものになってしまった。「お産は病気ではない」とは多くの人は思ってはいるのに、人々は病気を治療する病院というところで出産するようになった。すると今度は、出産は医療の中に存在しなければならないものに思えてきて、今ではだれも医療者のいない出産など、考えてみる人もいなくなってしまった。
やはり、何かあった場合のことを考えると、設備の整った病院のほうが安心だ。女ひとりでの出産など、あまりに前近代的。まるで動物みたいじゃないか。今の女性たちは自分が出産するまで、生まれたばかりの赤ちゃんを見たこともなければ、抱いたこともない。今の時代感覚では、自分でひとりで産んだ女性たちが存在したということがすでに驚愕にあたいする。そして、それは太古の昔の話ではなく、まだ生きている女性たちが体験してきたことなのだった。痛みをどう堪え、どのような姿勢で、いったい家の中のどこで産んだのだろう。そんなにからだが、うまく働くものだろうか。
「そのおばあさんは、お産の話をしてくれるかしら」
今でこそ、お産の話は女同士おおっぴらに話ができるようになってはきたけれど、かつての女性たちは慎み深くて、あまり公に話すことはなかったようだ。出会った始めての人にすぐに気を許すということができる人たちは、世の中にはそう多くない。とくに出産の話は、性的なプライベートな話なのだ。あたりさわりのない世間話とは、わけが違う。
「私が頼んであげる」と、のりちゃんは一緒に行ってくれることになった。
運動場に出ると、まだ小雨がパラついていた。冬にしては長い雨だ。鉄棒も犬小屋も落葉しない木々の葉もみんな濡れている。湿気を含んだ風がひんやりと冷たい。番犬のチャイが、いっしょに私たちと山の中の道をついてきた。痩せている犬にしては、おなかのあたりがボテッと重たく見える。
「チャイも、おなかに赤ちゃんがいるんだよ」
のりちゃんが笑っていう。
「私とどっちが先に生まれるのかなあ。ねえ、チャイ」
私は、妊婦と妊婦犬とともに、山のなだらかな上り斜面を上っていった。村の辻を曲がると、あとは1本道。そこからは家もなく、鬱蒼とした木々の合間をとぼとぼと歩いていった。途中から、チャイがクンクンと鳴いて、わき道の草むらの中に顔をつっこんで落ち着きのない状態になってきた。ほんの15分くらいの道のりなのに、チャイは足取りが重く、およそ番犬らしくない。「いつもと様子が違う」と、のりちゃんは心配して、私をおばあさんの家に残して先に帰っていった。
ひとり暮らしのおばあさんは、家の居間件台所で、テレビの相撲中継を見ていた。東京では初場所が始まっていた。木綿の綿入れのズボンに、藤色のセーター、首にはスカーフを巻いている。
「83歳になります」と彼女は自己紹介をした。
しわだらけの頬やその手は、それでもつややかで、年よりいくぶん若く見えた。
「お元気ですね」と言うと、彼女は少女がはにかむようにからだをねじらせてチャーミングに笑った。
「おじいさんが亡くなって10年になる。子どもたちはみんな都会暮らしでね。それでも、ちいっとも寂しいと思ったことはないけん。ここで生まれたけんね」
そう言って彼女は、私にみかんをすすめてくれた。部屋の中は、彼女の生活に必要なものがすべて揃っているようだった。手を伸ばせばすぐに何でもとれる、そんなこじんまりとした空間。
「ここらはなあ、昔はみいんな自分の家でお産しとった。助産婦を呼ぶ人もあったがね、ほとんどはひとりで産んだものさ。それがあたりまえだった。私も10人の子を産んだ。ひとり目は、どうしていいかわからんから、助産婦を呼んだけん、ふたり目からは母やお父さん(夫)が手伝どうてくれたときもあれば、自分ひとりで産んだときもある。みいんな軽いお産だった」
おばあさんは、こともなげにそう言う。あたりまえのことなんだと。
「畑で仕事をしているときにおなかが痛くなって、あわてて家に帰ったこともある。奥の部屋の畳を一枚上げて、そこへボロを敷いて、何回かいきむと、赤ん坊がひとりでに出てくる。なあんも難しいことはあらへん」
驚いた。ひとりで子どもを産むなんて、そんな芸当は今の人にはできっこない。でも、昔の女たちはそれをやってのけていた。しかも、こうした話は世界各地のいたるところで聞くことができる。女たちはあたりまえに子どもを自宅で産み、ときには自分ひとりでことを済ませていた。それがあたりまえだったのだ。
“あたりまえ”というのは、どういうことなんだろう。みんながやっていること。だれもそれに関して疑問をもつようなこともない常識的なこと。でも、時代や文化によって、あたりまえという定義は変化していく。今は病院で出産するのがあたりまえ。それに対して、多くの人は疑問を投げかけることはない。でも、少し前まではそうではなかったのだ。
「こんな昔の話。つまらんかろう」
おばあさんはそう言って、私に羊莞をすすめてくれた。お客は私ひとりだというのに、彼女は羊莞をまるごと1本、切り分けそうな勢いだったので、私はひときれしか食べられませんのでと、ていねいに断わりを言わなければならなかった。
窓の外には暗やみがせまってきていた。「暗くなるから送っていくけ」と、おばあさんはトラックを運転していくとしきりに言ってくれたけれど、これも辞退して、私はぬかるんだ山道をとぼとぼと降りて帰った。あたりはますます暗くなり、山道には街灯もなかった。1本道だから迷うはずもないと自分に言い聞かせてみたものの、正直言って、暗闇は私の恐怖心をくすぐるには十分だった。闇がこわい。深海にぽつんととり残されたような気分になった。
でも、ほんの少しの勇気と、時間が現実をつなぎ止めてくれるものだ。予定通りの(実際は早足になっていたので、あんがい短かったかもしれない)時間で、出会い小学校に戻った。犬のチャイは縁の下に潜りこんで、出てこなかった。
私たちは裸電球ひとつの薄暗い音楽室で、トマトシチューを食べ、こたつに入って話をした。のりちゃんは、木綿の産着に麻の柄の刺子をしていた。
「日本人って、今でも生まれたときはみんな着物を着るんだよね」
この国では、一生着物なんか着ないと思っている人でも、生まれたときは産着という着物を着せられる。それは、病院生まれでも、クリニックでも、自宅でも変わらない。日本人は、着物で迎えられるのだ。そして、そこには麻の柄がプリントされている。麻は魔よけになると言われていたからだ。現在でも、デパートの赤ちゃん用品売り場に行けば、麻の柄の着物はちゃあんと売っている。
そう言えば、死ぬときにも、日本人は着物を着ているのだ。日本という国の伝統は、生と死の間際に生きている。
夜中、のりちゃんとコウちゃんの話声で目が覚めた。音楽室のドアが開く音がする。目を開けても真っ暗なので、闇の中で今という時間と空間を確認するまで少し時間がかかった。さっきまで飲んでいたお酒が少しからだに残っている。私は出会い小学校の校長室で寝ている、今はまだ夜中、夢の途中で目が覚めた、認識ほぼ完了。
なんだかただならぬ気配のような気がして廊下に出てみると、コウちゃんが何本もの薪を腕に抱えている。
「どうしたの?」
「始まった」
「何が?」
コウちゃんは暗闇の中で、私の顔をじっと見つめ、ちょっと間をおいてから、さとすように言った。
「お産だよ」
あ、お産が始まったのか。よく考えてみればありうることだった。のりちゃんの予定日は近かったし、始まってもおかしくはない。でも、私の滞在はわずか二日。まさかその間に、お産が始まるなんて考えてもみなかったのだ。
音楽室に入ってみると、1本のろうそくの光の中に、ベッドの上で起き上がっているのりちゃんのシルエットが見えた。寒いので布団にくるまったままだ。陣痛はゆっくりと、でも規則的にやってきていた。彼女はしっかりとした口調で「もうすぐ赤ちゃんがくるよ」と言った。その顔はいつものようににっこりと、自信に満ちていた。
お産は、出会い小学校のこの音楽室が舞台だった。そして彼らは、助産婦もいっさいの医療者もそのステージに呼ぶ計画はなかった。始めからそういうつもりだったのだ。私は医療者ではないから、偶然そこに居合わせた観客のようなものだった。思わぬ観客がひとり迷い込んできてしまった。でも、だからといって、シナリオは何も変わらない。彼女たちは自分たちの手で赤ちゃんを産み、取り上げようという信念をもっていた。
私は何も言わずに、そばのこたつに寝ころがって待つことにした。私にできることは、今は何もない。お産のときはまわりにいる人が何かを指示したり、バタバタと動き回ったりすることで産婦が気をつかって、いい陣痛がこなくなってしまうことがあるのだ。ウトウトしながら、遠くにのりちゃんの呼吸の音を聞いていた。
2時間ほどたっただろうか、呼吸は確実に強くなり、陣痛の間隔は短くなっていた。あたりは相変わらずの漆黒の闇に包まれて、ときおり「いた〜い」といううめき声が、ろうそくの火をゆらめかせていた。
私はこたつを抜け出して、薪ストーブに薪をくべた。ストーブの上には昔ながらの、アルミの大きなやかんに、お湯が煮えたぎっている。
昔から、お産のときに人は湯を沸かしてきた。生まれた赤ちゃんを産湯につからせるためなのだけれど、回りの者たちは何かしなくてはいけないような気になって、かといって何もすることがないので、湯を沸かしてきたのではないかと、手持ちぶさたの私は考える。
のりちゃんのからだが動き始めた。痛みをこらえるために、起き上がり、ベッドの上でいくつか姿勢を変えた。長い髪が顔にかかり、その奥に見える表情は痛みをしっかりかみしめるように歪んでいた。産婦のからだを、両脇からコウちゃんと私が支える。
ベッドの上には、木の太い幹が、天井からぶら下がっていた。昔の人は、鴨居にロープや太い紐をかけ、それにつかまって産んだという話を聞いて、コウちゃんが出産前に天井に穴を開けて、梁に鎖をかけ、頑丈なお産綱ならぬお産棒を作っていたのだった。
のりちゃんはからだを起こして、その棒にぶら下がるようにつかまった。産婦のからだが垂直に伸び上がると、やがてお尻の下に赤ちゃんがすべり出てきた。立派なお産だった。彼女はやり遂げた。
あたりは静まりかえっていた。世の中のすべてのものがピクリとも動かない、そんな重たい静粛だった。私は瞬きをした。
生声は聞こえなかった。もう一回、瞬きをする。何も変わらない。
赤ちゃんはろうそくの揺れる光の中で、のりちゃんの膝の間に横たわっていた。私は手を伸ばして、赤ちゃんの背中をなでた。動かない。私の頭から血の気が引いていくのがわかった。
生まれた赤ちゃんが泣かない状態にいることを、仮死という。私はその場に医療者がいないことを思い出した。あわてて泣かずに横たわっている生まれたばかりの人間のお尻を軽くピシャピシャと叩く。
「叩かないで」
のりちゃんの声が私を遮った。その声は低く、大地を這うように伝わってきた。彼女は、あらかじめ友人の助産婦からもらっておいたカテーテルを小さなバッグから取りだし、その先を赤ちゃんの小さな鼻の穴に入れて、軌道につまっている羊水を吸出した。
その間、何秒だったか、何分だったのか。私の脳の中では、あらゆる可能性がカチャカチャと検索されていた。人間の不安は、よからぬ妄想をつむぎ出す。誕生は、それがどこで行われていても、その背後には死が迫っている。「今まで元気だった赤ちゃんが、いきなり心音がすとんと落ち、状態が悪くなることがある」という言葉は、産婦人科医のあいだではまるで挨拶のように交されている。しかも、ここには助産婦も医師もいない。蘇生にたけた医療者はいないのだ。
私はのりちゃんを見た。彼女は、赤ちゃんの鼻に入れたカテーテルの一方を口にくわえ、ゆっくりと注意深く吸っている。その表情はまるで、すべて計算通りというようにとても落ち着いて見えた。
赤ちゃんは背中をびくんと震わせてから、からだ中からしぼり出すように声を上げた。そして、何度も泣いた。
のりちゃんは母になり、コウちゃんは若い父親になった。ふたりは肩を寄せあいながら、ず〜っと赤ちゃんを見つめていた。
窓の外は白々と開け、雨のやんだ朝の光が音楽室に漏れている。
「今日はいい日だ」
笑顔をからだ中にいっぱいにした父親は、そう言って、一升瓶からコップに酒をついで、ぐびりと飲んだ。
ひとりの人間が生まれた朝は、いつもと違う朝のように感じる。光も空気も、風も町も、昨日と同じ風景なのに決まってまぶしく見える。それは、ひとりの人間の誕生が、それを迎えたまわりの人の心にやすらぎをあたえるからなのかもしれないけれど、もしかしたら、実際に赤ちゃんが生まれるときには、何らかのエネルギーが放射されているのかもしれない。それは、実際に科学的に測れる質量として現われているのではないかとさえ思えるほど、確実に変化する。
太陽が小学校の向かいの山の木々の上に顔を出したころ、1〜2年生の教室に住んでいる隣人カップルが1歳の女の子を連れてやってきた。この子も、この小学校で生まれた子どもだ。
「すごいぞ今日は。チャイも夜中からうちの教室の床下で子どもを産んだんだ。6匹も生まれたよ」
チャイは夕方から縁の下に姿を隠したまま、のりちゃんのお産が始まった夜中の2時ころからくんくんと鳴き出して、1匹ずつ子どもを産んでいったそうだ。そして夜明けに6匹目の子どもを産んで、お産を終えたのだった。
昨日の夕方、母のおなかの中で、山を上っていた子どもたちはみな、暗いうちにこの世に顔を出した。そういえば、満月だったのだ。