にっぽんのお産
春日ハルさん

北海道釧路郡阿寒町  大正7年3月20日生まれ  北海道標茶町蘂多町出身
インタビュー/2002年 2月1日  84才

●学校にいかず馬に乗って家業を手伝っていた少女時代
 釧路郡阿寒町。釧路湿原のすぐそばに、春日さんの家がある。360度見渡せるどこまでも広がる牧草地と畑。一番近い隣の家まで2キロ。街道沿いにぽつんと農家は建っている。家の前の自宅の牧場には、夏になると馬が放たれる。
 大正7年生まれの春日さんは、母親がからだが弱かったため、子どものときから親の手伝いをして、家計を支えてきた。幼い子の子守りをはじめ、家業で飼っていた馬に乗り仕事を手伝ってきたという。
「実家は農家、母親が弱くて働けなかったから、幼い頃から子守っこして働いていたの。だから、学校ほとんど行ってないよ。2年生か3年生くらいまで」
 ある日学校で、先生から「明日読ませるから教科書を覚えてこい」という宿題が出た。春日さんはその夜、家のみんなが寝静まってから親に知られないように、ランプの上に布団をかけ、十二時くらいまで一生懸命勉強した。何回も繰り返してやっと読めるようになったのだが、寝ようと思ったら寝つけない。それに気づいた父親が「明日から学校へ行くな!」としかられたと言う。
「『女の子は自分の名前さえ書ければいい、オレもそうだから、学校行かなくていい』って。だから、学校行かないで一生懸命畑の仕事手伝えって」
 学校に行かない変わりに、畑仕事や馬の世話をした。12〜13才のときには、朝の3時に起きて、馬の種付けをするために、家の馬に乗り、近くの農場へ大急ぎで走らせていたという。
「鞍つけてね。馬に乗って飛ばして。ばあさん(母親)がね、心臓悪くて、竹でかごやザルを作ってた。無理な仕事できないんだわ。だから、ほかの仕事は男だ女だっていってらんねえの、忙しくって」
 馬に乗る練習は雪の中。落馬しても痛くないように、冬場に練習するのだと言う。モンペをはいて、女だてらに馬を乗り回していた。そんなとき、山の中で熊と出くわしたこともあった。

●結婚して読み書きを覚える
 10代のころ家業を手伝っていた春日さんは、嫁ぐまで読み書きができなかった。昭和12年、縁あって20歳で阿寒町の農家に嫁いだ。
「嫁いできたのは、3月の初めのまだ雪があって寒いころ。標茶町から汽車で釧路まで来て、それから馬そりで迎えにきてもらった。だって60何年前で車も何にもないでしょ? 畑の中には大きな木や根っこがいっぱいで、開墾するのに苦労したね」
 北海道に本州から開拓団が入植したのは江戸時代に遡る。それまでの北海道は先住民アイヌが多く住む土地だった。昭和になって開発が進み、山では材木が切り出され、鉱山にも多くの人々が北海道にやってきていた。荒れた農地を開拓したのも、多くは入植した人々だった。
 夫は次男だったが、長男がすでに亡くなっていたので、実質は本家への嫁入りだった。夫の母は23年間のあいだに11人の子を産み、そのうち5人を亡くしていた。
「一番下の子が生まれた大正6年に、長男が22歳で亡くなって、それから病気や事故で19歳の子と10歳と9歳と。赤ちゃんの時に死んでいる子もいるから。母親も大正10年に亡くなった」
 姑は次々子どもを亡くし、自らも4才という幼い子を残して死んでいったのだという。昭和初期まで多くの家庭が子だくさんだったが、死亡率もまた高かったのである。その後、子どもたちを舅がひとりで育ててきた。
「ここ来たら舅に『春日の嫁が字がわかんないのは“一家の恥”。だから今日から勉強せい!』って怒られたね。はなのひとつもつかね本持ってきて、一頁ずつ読んで、20歳で嫁いで初めて字の勉強、ひとつでもわかんねいと『こらっ』って大きな声で怒られて首押さえつけられたんだ。農家の夏は忙しいから、冬の2〜3ヶ月のちょこっとの間に読むこと教えてもらってね。一度教えたら二度聞くなって。だから一回教えてもらったこと忘れることできねえ。それで、あらゆる字読めるようになったよ。
 来年は書くことを覚えてもらうから。今年は読むことを覚えろって。でも、書くこと教えてもらわないうちに、明くる年にガンか何かで亡くなった」

●お産は家族が取り上げた
 春日さんは昭和12年に結婚し、14年に長女を出産。けれど、その子は4才のときに亡くなった。長男が16年に生まれ、その後18年、十九年、21年、23年に出産。戦前から戦後のベビーブームにかけて、6人の子を産んでいる。
「最初の二人は、標茶から心臓の悪い母がここへ来てとりあげた。母は昔、部落の人に頼まれるととりあげに行ってた。自分ちで馴れてるからあちこち頼まれてね。私はついていったことはないけど。母が人のお産をとって助けたのはただの手伝いで、金はもらってない。人が泣いてるから手伝っただけで仕事じゃないの。私の3人目からは、母が来れなかったので旦那が取り上げた」
 春日さんの母親は、夫にとりあげ方を伝授したのだという。
「誰もいないから。旦那に教えていたんだ。こまるからって。お湯を沸かして、へその緒の切り方、どれぐらいの長さだかしらないけど何かで縛って、そして赤ちゃんのおへそから10センチくらいしたところをしごく」
 はさみは家でふだん使っている太刀鋏を使った。
「後産も、じいさん(夫)が全部やった。どっかにもってったのか、埋めたのかわからないけど。
 畑が忙しいから、我慢しきれなくなるまで畑の仕事してて、痛くてもう我慢しきれなくて、畑で生まれたら困るって休み休み時間稼いでいって、家入ったらすぐ生まれた。上の子いるから、生まれてからお父さん呼びにいって、それでへその緒切ったの。
 6人の中で一番大変だったのは、ふたり目の元旦のお産かな。31日の大晦日にまだ生まれないな〜って思ってたら、腹いたくねえんだ。31日にお湯下っちゃって、年越してもまだ生まれないからお雑煮食べれるなってお汁粉食べてから、標茶から来ていたお母さんが「何か変だ」って、寝かして腹をひっくり返したらはらみだして。へその緒が頸のところに一巻きまかれてて、寝かしたからはずれて生まれたんでないかって。中で赤ちゃんを回転させたんだね。なんにも腹いたくねえからなんか少し腹のばした方がいいんでないかって、母親がぐるぐるとこう腹のばして、それからはらみだした。ははは。だから元日の昼、2日かかって生まれた。産後2週間くらいなにもさせねえんな。年取ってから困るからゆっくり休んでたね」
 妊娠中は、忙しく仕事をし、陣痛がはじまってからも畑にいるほど働いてはいるものの、さすがに産後は、ゆっくり休養をとっていた。嫁として、唯一の休息の日々だったのかもしれない。
「おっぱいは出ないほうだった。出ないから、子どもが近い」
 子どもが近いというのは、次の子の妊娠までに間が開かないという意味である。昔、避妊法がとくになかったころは、授乳をしていることが排卵を遅らせ、自然の避妊法になっていた。
「ミルクは配給だけど、2ヶ月やそこら飲ませるのも足りないんだ。泣かれたら、米を湯でのばしておいてすり鉢ですって、それをこして、砂糖はなんぼかたまにちょこっといれてミルク代わりにスプーンでのました。腹減って朝まで間に合わないから、夜起きてまた米すってスプーンであげて。それでも育つんだね」
 農家といっても、戦後までは土地が荒れていて野菜しか捕れず、米は配給だった。それ以外の食べ物は、山や川から捕りほとんど自給。現在でも、衣類、道具など、ほとんどのものを自分でつくっているという。毛糸をつむぎ、下着やセーターを編む。天気のいい日には畑仕事。雨が降れば、ムシロを綯い、豆を乾燥させ、保存食をつくる。自家製のブドウ酒もつくっている。ひとり暮しの現在も、とにかくよくからだを動かす働き者だ。
「1日ぐらい寝たいなって、思って暮らしたものです。だからね、今こうしてここで一人で食べていけているのかもしれない」
 86六才の現在も、元気で、釧路の荒野でネコと暮している。



































×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。