にっぽんのお産
宮下すみ江さん

山梨県南都留郡足和田村  明治44年 1月9日生まれ  足和田村出身
インタビュー/2004年 8月11日 92才

●とりあげ婆さんに頼んだ村のお産
 富士山麓の富士五湖のひとつ、河口湖。今は観光地として人気が高く、周辺の町は観光産業で盛たっている。今では山梨県第二位の町、富士吉田市を抱えるこの地域も、かつては県北と呼ばれ、標高が高く、地が荒れていたことで、農作物はあまり捕れない土地柄だった。戦前の最大の産業は養蚕。富士吉田市は織物の町として知られ、絹織物の機工場やそれを売買する人々でにぎわった時代があった。周辺の集落では、現金収入が見込まれる養蚕を副業としている農家も多く、農家は屋根裏を蚕棚として設計されている家屋が目立つ。

 宮下さんの住む足和田村長浜地区は、奥河口湖と呼ばれ、開発は遅れていた。河口湖を周遊する道路が整備された高度成長時代までは、湖の対岸に渡るのはもっぱら渡し船が使われていたという。
 宮下さんは7人きょうだいの2番目として、農家に生まれた。19才のときに、親戚筋の宮下家の養女となり、婿養子を迎える。昭和11年に結婚。足和田村出身の夫は軍関係の仕事で、結婚後、東京神田に移り住む。戦禍が激しくなると、長女を実家に疎開させ、自分は長男を連れ、荒川区の御町に引越す。そこで空襲を受け、焼け出された。10年間を東京で過し、戦後、郷里の足和田村(現・富士河口湖町)長浜地区に戻り、兼業農家を営む。
 長女を13年、長男を18年、次男を21年に産む。いずれも実家に帰って出産した。ひとり目は、とらのばあさんというとりあげばあさんに介助してもらった。
「お産はね、実家で。座敷きの畳みの上。布団を敷いてな。今のようにいい布団ではなかったけんど。昔は納戸で畳み上げて、ぼろ敷いて産んだ人もあるというが、私はそんなことはなかったね。とらのばあさんに来てもらって。資格のない方でしたが、器用な人でね。何人ものお産をとりあげていました」

 戦前から戦後にかけて、村の人口は 千人。この時代に長浜地区だけで、3人のとりあげばあさんがいた。「親戚筋のおばあ」を呼ぶのが、各家庭のならわしだったという。ひとりのとりあげばあさんが、難産で難儀すると、ほかのとりあげばあさんがヘルパーとして駆け付けることもあった。とりあげばあさんの時代のお産は、坐産だったという。
「そりゃあ、苦しかった。ばあさまには、腰を後からさすってもらった」
 布団の上でよつんばいの姿勢で、とりあげばあさんは、すみ江さんの背中側に回り、お尻の下で赤ちゃんを受け止めた。
「這った姿勢(よつんばい)のほうが、力がはいるずら。ふたり目のときは、免許を持った産婆さんを呼んだで、横に寝て産みましたが。とにかく痛かったから、生まれたら『やっと生まれた』ということでね。生まれた子をすぐに抱いたかどうか、覚えとらんが。そのときにゃあ、一貫三百匁の大きな男の子だったなあ」
(一貫は、3.75キログラム。一匁は、3.75グラム。一貫三百匁=4875グラム。)

 上体を起こした姿勢で産んだのは、特別だれに教わったわけでもなく、自然にその姿勢になったのだという。あるいは、なんとなく以前、自分の母親のお産を見たときのことを覚えていたためかもしれない。2度目のお産で、免許をもった産婆を呼んだとき、寝て産むことをさとされた。
 すみ江さんは、そのときのことをあまり鮮明に覚えていないという。それでもよつんばいのほうが、いきむときの力が入りやすかったと回想する。
「産後は、人によってそれぞれだが、1週間くれえは布団敷いて寝ていただよ。それでも、赤ん坊の世話とかあれやこれやっていましたが。その後は、なんでもやっれちゅうで」
 すみ江さんの妹のとよ子さんは、嫁に行った先で産み、11日目には、畑に出て、蚕用の桑の木を刈る作業をしたという。

「食事は家族がつくってくれましたよ。ガスなんてもんがなかったから、かまどの時代。土間のとなりにダイドコ(台所)があって。電気は大正8年ですから、ありました。かまどでご飯も、おかずもつくった。そこで湯を沸かしておいて、生まれると産湯につかわした」
 出産の部屋が納戸であったり、座敷きであったりする違いや、産後の静養の長さに違いがあるのは、時代にもよるが、その家の舅の考え方の違いにもよるのではないかと、すみ江さんは言う。
「舅がいばっていて、嫁を大事に思っていない家は、なかなか大変だったでしょうよ。お産なんて、汚くていいって考え方もあったんでないの」
 すみ江さんの場合は、子どもを亡くした夫婦のところに養子として入り、婿養子を迎えているという関係で、嫁という扱いは受けていなかったようである。それでも戦後の食料難の時代は、どの家にも十分な食料はなかったという。

「戦後だいぶんたってから、田んぼができた。それまでは米もつくれない土地。作物は麦、小麦、とうもろこしですよね。米は配給も少なくて、麦が七、米三くらいに混ぜて。それがあればいいほうで、小麦でほうとうをつくったり、とうもろこしでだんごこさえたり。それが主食のときはまだよかった。終戦後になったら、もっとひどい。イモばっかりで。それでも乳はよく出たんだね」
 農家であっても、家族が十分に年中食べられるだけの作物をつくれる家はほとんどなかった。戦後、農地改革で、地主の土地が村人に分配されたが、土も悪く、肥料も十分にないこの地では、あまり作物はとれなかった。村は、現金収入になる養蚕を奨励し、村中の家庭が家に蚕棚をつくるが、それも数年でぱったりだめになった。その後、田んぼを開墾したが、十数年で国の減反制作に合い、田んぼを続ける農家は現在ではほんの少しになっている。

「ほんとうに、村は驚くほど変わりました。今の若いもんは、農家でなく、嫁もみんな働きい出てるでしょう。年寄りは留守番よ。だから忙しくて、行事もしなくなったが、昔は毎月いろんな行事があって。そういうことが楽しみでもあったんだねえ」
 昔はどこの村でも行事が多かった。この村では、ときには仏行事、ときには神様の行事と、神仏混合で行事が行なわれていた。そのたびに、おだんごをこしらえたり、赤飯を炊いたりしたという。
「産の神ちゅうて、お産して三日目に家の中の神棚の氏神さんにお参りしてね。そんときゃあ麦飯でない、赤飯炊いて。普段は麦飯ばっかだったが、お祝い事のときんために、餅の粟とかみんな貯えてあったんだね。それを炊いて祝った」
 お宮参り、お食い初めなど、育児に関する行事は多く、そうした機会に親族が集まり、みんなで子どもの無事な成長を願ったのである。



































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