トピックス
ふくしま・フォト・ファミリア・プロジェクト 2016

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ふくしま・フォト・ファミリア・プロジェクト

写真家きくちさかえが、ご家族、赤ちゃんの写真を撮影します。
2016年度企画。7月22日会津磐梯、23日三春町、24-25日南相馬市。9月19-21日など。

「ふくしま・フォト・ファミリア・プロジェクト」は、福島県の子どもを持つご家族の写真を撮影し、それを撮影会の参加者にプレゼントする活動です。
福島県にお住まいのお子さんを持つご家族であれば、どなたでもご参加いただけます。
もし可能であれば、ご家族のお話しや、2011年の震災のとき、その後のお話しを聞かせていただければと願っています。
お知り合いの方もご紹介いただければ幸いです。
福島の未来をつなぐ子どもたちのために、何ができるかを考えるプロジェクトとして、ご家族の写真を撮影しています。 ご協力をお願いいたします。

申込・問合せ きくち nagi10sk(アット)yahoo.co.jp

きくちさかえ/写真家・社会デザイン研究者、長野県茅野市在住
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出産の社会デザイン学
女子刑務所における妊婦とその子どもへの支援 --法務省への政策提言の試み

女子刑務所における妊婦とその子どもへの支援 --法務省への政策提言の試み
社会デザイン学会誌 2013 vol.5

トピックス
DVD「みんなのお産」が紹介されました

DVD「みんなのお産」がメディアに紹介されました。

babycom 妊娠・出産・育児情報ウェブ
http://www.babycom.gr.jp/community/index.html

中日新聞
http://www.chunichi.co.jp/article/living/life/CK2014110702000003.html



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にっぽんのお産
にっぽんのお産INDEX

田畑ツルさん
北海道、知床、ウトロ 明治44年生まれ 青森県出身
インタビュー/2002年、2月 92歳
●北方の漁師の妻
●カラフトでの生活
●カラフトからウトロへ


宮下すみ江さん
山梨県南都留郡足和田村  明治44年 1月9日生まれ  足和田村出身
インタビュー/2004年 8月11日 92才
●とりあげ婆さんに頼んだ村のお産


春日ハルさん
北海道釧路郡阿寒町  大正7年3月20日生まれ  北海道標茶町蘂多町出身
インタビュー/2002年 2月1日  84才
●学校にいかず馬に乗って家業を手伝っていた少女時代
●結婚して読み書きを覚える
●お産は家族が取り上げた


皇室の出産
1.ロイヤル・ベビー誕生
2.皇室にみる誕生の場の意味
3.帝王切開の意味

にっぽんのお産
春日ハルさん

北海道釧路郡阿寒町  大正7年3月20日生まれ  北海道標茶町蘂多町出身
インタビュー/2002年 2月1日  84才

●学校にいかず馬に乗って家業を手伝っていた少女時代
 釧路郡阿寒町。釧路湿原のすぐそばに、春日さんの家がある。360度見渡せるどこまでも広がる牧草地と畑。一番近い隣の家まで2キロ。街道沿いにぽつんと農家は建っている。家の前の自宅の牧場には、夏になると馬が放たれる。
 大正7年生まれの春日さんは、母親がからだが弱かったため、子どものときから親の手伝いをして、家計を支えてきた。幼い子の子守りをはじめ、家業で飼っていた馬に乗り仕事を手伝ってきたという。
「実家は農家、母親が弱くて働けなかったから、幼い頃から子守っこして働いていたの。だから、学校ほとんど行ってないよ。2年生か3年生くらいまで」
 ある日学校で、先生から「明日読ませるから教科書を覚えてこい」という宿題が出た。春日さんはその夜、家のみんなが寝静まってから親に知られないように、ランプの上に布団をかけ、十二時くらいまで一生懸命勉強した。何回も繰り返してやっと読めるようになったのだが、寝ようと思ったら寝つけない。それに気づいた父親が「明日から学校へ行くな!」としかられたと言う。
「『女の子は自分の名前さえ書ければいい、オレもそうだから、学校行かなくていい』って。だから、学校行かないで一生懸命畑の仕事手伝えって」
 学校に行かない変わりに、畑仕事や馬の世話をした。12〜13才のときには、朝の3時に起きて、馬の種付けをするために、家の馬に乗り、近くの農場へ大急ぎで走らせていたという。
「鞍つけてね。馬に乗って飛ばして。ばあさん(母親)がね、心臓悪くて、竹でかごやザルを作ってた。無理な仕事できないんだわ。だから、ほかの仕事は男だ女だっていってらんねえの、忙しくって」
 馬に乗る練習は雪の中。落馬しても痛くないように、冬場に練習するのだと言う。モンペをはいて、女だてらに馬を乗り回していた。そんなとき、山の中で熊と出くわしたこともあった。

●結婚して読み書きを覚える
 10代のころ家業を手伝っていた春日さんは、嫁ぐまで読み書きができなかった。昭和12年、縁あって20歳で阿寒町の農家に嫁いだ。
「嫁いできたのは、3月の初めのまだ雪があって寒いころ。標茶町から汽車で釧路まで来て、それから馬そりで迎えにきてもらった。だって60何年前で車も何にもないでしょ? 畑の中には大きな木や根っこがいっぱいで、開墾するのに苦労したね」
 北海道に本州から開拓団が入植したのは江戸時代に遡る。それまでの北海道は先住民アイヌが多く住む土地だった。昭和になって開発が進み、山では材木が切り出され、鉱山にも多くの人々が北海道にやってきていた。荒れた農地を開拓したのも、多くは入植した人々だった。
 夫は次男だったが、長男がすでに亡くなっていたので、実質は本家への嫁入りだった。夫の母は23年間のあいだに11人の子を産み、そのうち5人を亡くしていた。
「一番下の子が生まれた大正6年に、長男が22歳で亡くなって、それから病気や事故で19歳の子と10歳と9歳と。赤ちゃんの時に死んでいる子もいるから。母親も大正10年に亡くなった」
 姑は次々子どもを亡くし、自らも4才という幼い子を残して死んでいったのだという。昭和初期まで多くの家庭が子だくさんだったが、死亡率もまた高かったのである。その後、子どもたちを舅がひとりで育ててきた。
「ここ来たら舅に『春日の嫁が字がわかんないのは“一家の恥”。だから今日から勉強せい!』って怒られたね。はなのひとつもつかね本持ってきて、一頁ずつ読んで、20歳で嫁いで初めて字の勉強、ひとつでもわかんねいと『こらっ』って大きな声で怒られて首押さえつけられたんだ。農家の夏は忙しいから、冬の2〜3ヶ月のちょこっとの間に読むこと教えてもらってね。一度教えたら二度聞くなって。だから一回教えてもらったこと忘れることできねえ。それで、あらゆる字読めるようになったよ。
 来年は書くことを覚えてもらうから。今年は読むことを覚えろって。でも、書くこと教えてもらわないうちに、明くる年にガンか何かで亡くなった」

●お産は家族が取り上げた
 春日さんは昭和12年に結婚し、14年に長女を出産。けれど、その子は4才のときに亡くなった。長男が16年に生まれ、その後18年、十九年、21年、23年に出産。戦前から戦後のベビーブームにかけて、6人の子を産んでいる。
「最初の二人は、標茶から心臓の悪い母がここへ来てとりあげた。母は昔、部落の人に頼まれるととりあげに行ってた。自分ちで馴れてるからあちこち頼まれてね。私はついていったことはないけど。母が人のお産をとって助けたのはただの手伝いで、金はもらってない。人が泣いてるから手伝っただけで仕事じゃないの。私の3人目からは、母が来れなかったので旦那が取り上げた」
 春日さんの母親は、夫にとりあげ方を伝授したのだという。
「誰もいないから。旦那に教えていたんだ。こまるからって。お湯を沸かして、へその緒の切り方、どれぐらいの長さだかしらないけど何かで縛って、そして赤ちゃんのおへそから10センチくらいしたところをしごく」
 はさみは家でふだん使っている太刀鋏を使った。
「後産も、じいさん(夫)が全部やった。どっかにもってったのか、埋めたのかわからないけど。
 畑が忙しいから、我慢しきれなくなるまで畑の仕事してて、痛くてもう我慢しきれなくて、畑で生まれたら困るって休み休み時間稼いでいって、家入ったらすぐ生まれた。上の子いるから、生まれてからお父さん呼びにいって、それでへその緒切ったの。
 6人の中で一番大変だったのは、ふたり目の元旦のお産かな。31日の大晦日にまだ生まれないな〜って思ってたら、腹いたくねえんだ。31日にお湯下っちゃって、年越してもまだ生まれないからお雑煮食べれるなってお汁粉食べてから、標茶から来ていたお母さんが「何か変だ」って、寝かして腹をひっくり返したらはらみだして。へその緒が頸のところに一巻きまかれてて、寝かしたからはずれて生まれたんでないかって。中で赤ちゃんを回転させたんだね。なんにも腹いたくねえからなんか少し腹のばした方がいいんでないかって、母親がぐるぐるとこう腹のばして、それからはらみだした。ははは。だから元日の昼、2日かかって生まれた。産後2週間くらいなにもさせねえんな。年取ってから困るからゆっくり休んでたね」
 妊娠中は、忙しく仕事をし、陣痛がはじまってからも畑にいるほど働いてはいるものの、さすがに産後は、ゆっくり休養をとっていた。嫁として、唯一の休息の日々だったのかもしれない。
「おっぱいは出ないほうだった。出ないから、子どもが近い」
 子どもが近いというのは、次の子の妊娠までに間が開かないという意味である。昔、避妊法がとくになかったころは、授乳をしていることが排卵を遅らせ、自然の避妊法になっていた。
「ミルクは配給だけど、2ヶ月やそこら飲ませるのも足りないんだ。泣かれたら、米を湯でのばしておいてすり鉢ですって、それをこして、砂糖はなんぼかたまにちょこっといれてミルク代わりにスプーンでのました。腹減って朝まで間に合わないから、夜起きてまた米すってスプーンであげて。それでも育つんだね」
 農家といっても、戦後までは土地が荒れていて野菜しか捕れず、米は配給だった。それ以外の食べ物は、山や川から捕りほとんど自給。現在でも、衣類、道具など、ほとんどのものを自分でつくっているという。毛糸をつむぎ、下着やセーターを編む。天気のいい日には畑仕事。雨が降れば、ムシロを綯い、豆を乾燥させ、保存食をつくる。自家製のブドウ酒もつくっている。ひとり暮しの現在も、とにかくよくからだを動かす働き者だ。
「1日ぐらい寝たいなって、思って暮らしたものです。だからね、今こうしてここで一人で食べていけているのかもしれない」
 86六才の現在も、元気で、釧路の荒野でネコと暮している。

にっぽんのお産
宮下すみ江さん

山梨県南都留郡足和田村  明治44年 1月9日生まれ  足和田村出身
インタビュー/2004年 8月11日 92才

●とりあげ婆さんに頼んだ村のお産
 富士山麓の富士五湖のひとつ、河口湖。今は観光地として人気が高く、周辺の町は観光産業で盛たっている。今では山梨県第二位の町、富士吉田市を抱えるこの地域も、かつては県北と呼ばれ、標高が高く、地が荒れていたことで、農作物はあまり捕れない土地柄だった。戦前の最大の産業は養蚕。富士吉田市は織物の町として知られ、絹織物の機工場やそれを売買する人々でにぎわった時代があった。周辺の集落では、現金収入が見込まれる養蚕を副業としている農家も多く、農家は屋根裏を蚕棚として設計されている家屋が目立つ。

 宮下さんの住む足和田村長浜地区は、奥河口湖と呼ばれ、開発は遅れていた。河口湖を周遊する道路が整備された高度成長時代までは、湖の対岸に渡るのはもっぱら渡し船が使われていたという。
 宮下さんは7人きょうだいの2番目として、農家に生まれた。19才のときに、親戚筋の宮下家の養女となり、婿養子を迎える。昭和11年に結婚。足和田村出身の夫は軍関係の仕事で、結婚後、東京神田に移り住む。戦禍が激しくなると、長女を実家に疎開させ、自分は長男を連れ、荒川区の御町に引越す。そこで空襲を受け、焼け出された。10年間を東京で過し、戦後、郷里の足和田村(現・富士河口湖町)長浜地区に戻り、兼業農家を営む。
 長女を13年、長男を18年、次男を21年に産む。いずれも実家に帰って出産した。ひとり目は、とらのばあさんというとりあげばあさんに介助してもらった。
「お産はね、実家で。座敷きの畳みの上。布団を敷いてな。今のようにいい布団ではなかったけんど。昔は納戸で畳み上げて、ぼろ敷いて産んだ人もあるというが、私はそんなことはなかったね。とらのばあさんに来てもらって。資格のない方でしたが、器用な人でね。何人ものお産をとりあげていました」

 戦前から戦後にかけて、村の人口は 千人。この時代に長浜地区だけで、3人のとりあげばあさんがいた。「親戚筋のおばあ」を呼ぶのが、各家庭のならわしだったという。ひとりのとりあげばあさんが、難産で難儀すると、ほかのとりあげばあさんがヘルパーとして駆け付けることもあった。とりあげばあさんの時代のお産は、坐産だったという。
「そりゃあ、苦しかった。ばあさまには、腰を後からさすってもらった」
 布団の上でよつんばいの姿勢で、とりあげばあさんは、すみ江さんの背中側に回り、お尻の下で赤ちゃんを受け止めた。
「這った姿勢(よつんばい)のほうが、力がはいるずら。ふたり目のときは、免許を持った産婆さんを呼んだで、横に寝て産みましたが。とにかく痛かったから、生まれたら『やっと生まれた』ということでね。生まれた子をすぐに抱いたかどうか、覚えとらんが。そのときにゃあ、一貫三百匁の大きな男の子だったなあ」
(一貫は、3.75キログラム。一匁は、3.75グラム。一貫三百匁=4875グラム。)

 上体を起こした姿勢で産んだのは、特別だれに教わったわけでもなく、自然にその姿勢になったのだという。あるいは、なんとなく以前、自分の母親のお産を見たときのことを覚えていたためかもしれない。2度目のお産で、免許をもった産婆を呼んだとき、寝て産むことをさとされた。
 すみ江さんは、そのときのことをあまり鮮明に覚えていないという。それでもよつんばいのほうが、いきむときの力が入りやすかったと回想する。
「産後は、人によってそれぞれだが、1週間くれえは布団敷いて寝ていただよ。それでも、赤ん坊の世話とかあれやこれやっていましたが。その後は、なんでもやっれちゅうで」
 すみ江さんの妹のとよ子さんは、嫁に行った先で産み、11日目には、畑に出て、蚕用の桑の木を刈る作業をしたという。

「食事は家族がつくってくれましたよ。ガスなんてもんがなかったから、かまどの時代。土間のとなりにダイドコ(台所)があって。電気は大正8年ですから、ありました。かまどでご飯も、おかずもつくった。そこで湯を沸かしておいて、生まれると産湯につかわした」
 出産の部屋が納戸であったり、座敷きであったりする違いや、産後の静養の長さに違いがあるのは、時代にもよるが、その家の舅の考え方の違いにもよるのではないかと、すみ江さんは言う。
「舅がいばっていて、嫁を大事に思っていない家は、なかなか大変だったでしょうよ。お産なんて、汚くていいって考え方もあったんでないの」
 すみ江さんの場合は、子どもを亡くした夫婦のところに養子として入り、婿養子を迎えているという関係で、嫁という扱いは受けていなかったようである。それでも戦後の食料難の時代は、どの家にも十分な食料はなかったという。

「戦後だいぶんたってから、田んぼができた。それまでは米もつくれない土地。作物は麦、小麦、とうもろこしですよね。米は配給も少なくて、麦が七、米三くらいに混ぜて。それがあればいいほうで、小麦でほうとうをつくったり、とうもろこしでだんごこさえたり。それが主食のときはまだよかった。終戦後になったら、もっとひどい。イモばっかりで。それでも乳はよく出たんだね」
 農家であっても、家族が十分に年中食べられるだけの作物をつくれる家はほとんどなかった。戦後、農地改革で、地主の土地が村人に分配されたが、土も悪く、肥料も十分にないこの地では、あまり作物はとれなかった。村は、現金収入になる養蚕を奨励し、村中の家庭が家に蚕棚をつくるが、それも数年でぱったりだめになった。その後、田んぼを開墾したが、十数年で国の減反制作に合い、田んぼを続ける農家は現在ではほんの少しになっている。

「ほんとうに、村は驚くほど変わりました。今の若いもんは、農家でなく、嫁もみんな働きい出てるでしょう。年寄りは留守番よ。だから忙しくて、行事もしなくなったが、昔は毎月いろんな行事があって。そういうことが楽しみでもあったんだねえ」
 昔はどこの村でも行事が多かった。この村では、ときには仏行事、ときには神様の行事と、神仏混合で行事が行なわれていた。そのたびに、おだんごをこしらえたり、赤飯を炊いたりしたという。
「産の神ちゅうて、お産して三日目に家の中の神棚の氏神さんにお参りしてね。そんときゃあ麦飯でない、赤飯炊いて。普段は麦飯ばっかだったが、お祝い事のときんために、餅の粟とかみんな貯えてあったんだね。それを炊いて祝った」
 お宮参り、お食い初めなど、育児に関する行事は多く、そうした機会に親族が集まり、みんなで子どもの無事な成長を願ったのである。

マタニティ・ヨーガ
マタニティ・ヨーガINDEX

yoga01.jpg妊娠中のエクササイズは、思った以上に効果があります。
お産はからだのお仕事です。
安産をまかせられる、からだづくりをおすすめします。
おなかの赤ちゃんとともに、気持ちのいいひとときを!


マタニティ・ヨーガ
マタニティ・ヨーガの効果
ゆったりリラックス
呼吸法を練習する
腹式呼吸法
マッサージでほぐし合い
お産の呼吸法
瞑想



マタニティ・ヨーガ
瞑想

最後に頭をぽかーんとさせて、瞑想をしてみましょう。
忙しい毎日の生活の中で、おなかの中の赤ちゃんに思いをはせる時間はなかなかないかもしれません。ヨーガの瞑想は、ふだん明晰に働いている脳を休ませて、心身ともにリフレッシュする時間です。瞑想といっても難しいことはありません。
仕事のことや、スケジュールのことをいっさい忘れて、頭をぽかーんとさせて、おなかの中の赤ちゃんを感じてみます。ただそれだけ。とても簡単です。

1.あぐらで座り、おなかに手をあてる。
 あぐらの姿勢で楽に座ります。背筋を伸ばして、肩の力を抜きましょう。肩や腕に力が入らない位置で、おなかに手を当てます。

2.目を閉じて、頭をぽかーんとさせる。
 目を閉じて、ゆったり呼吸しながら、頭をぽかーんとさせます。おなかに手のぬくもりを感じながら、おなかの中の赤ちゃんを感じてみましょう。赤ちゃんをイメージしてもいいでしょう。
POINT〜顔は正面で、背筋もまっすぐキープ。背中がだんだん丸まってこないように注意しよう。

3.目を開けます。
 十分瞑想したら、ゆっくり目を開けます。おおきく深呼吸をしましょう。
セットカウント
 1分から5分。自分にあった時間で瞑想を楽しもう。

マタニティ・ヨーガ
お産の呼吸法

お産のときの呼吸法は、鼻から入れて、口から吐く呼吸です。
ゆっくりした呼吸で、止めずになめらかに。
吐く息に意識を向け、吸う息は息が自然に入ってくるようにする。
十分に吐けば、息は自然入ってくるので、息を吸い上げないようにしましょう。
お産のときたくさん息を吸い込むと、酸素過多になり頭がくらくらすることがあるので要注意です。

 お産のときには、痛みや緊張から、からだをこわばらせたり、浅く早い呼吸になりがち。歯をくいしばって息を止めてしまう人もいます。これでは息苦しくて不安が高まり、緊張はさらにふくらんでしまいます。こうしたときにこそ、ゆっくりした吐き出す呼吸をすることによって、気持ちを落ち着かせリラックスしましょう。妊娠中から練習しておけば、本番でもゆっくりした吐き出しの呼吸で陣痛をのり越えることができます。

 陣痛はかならず波のようにやってきては引いていきます。これの繰り返しです。陣痛がきたときに呼吸法をして、陣痛がおさまったときには、ふだんどうりの意識しない呼吸に戻します。陣痛がないときに、いかにからだから力を抜いて、リラックスができるかが、長い陣痛の時間をのり越える決め手になります。陣痛が終わったら、ヨーガで練習してきたように、肩や背中、腕などから力を抜いてリラックスしましょう。

1.まず深呼吸
 陣痛の波がきたら、まず深呼吸を1回します。鼻からゆっくり吸って、鼻からゆっくり吐きます。

2.鼻から入れて、口から吐く
 次の呼吸から、鼻から入れて、口から吐きます。ゆっくりとした自分のリズムで。息は吸い上げないで、自然に鼻から入ってくるような感じです。吐く息に意識を向けましょう。
POINT〜お産のときは、緊張をゆるめるために鼻ではなく口から吐いたほうがより効果的。やりにくい人は鼻呼吸でもOK

3.最後に深呼吸
 陣痛の波が引いていったら、最後に鼻から吸って、鼻から吐く深呼吸をします。
 終わったら、元の自然な呼吸に戻り、全身の力を抜きましょう。
セットカウント
 陣痛を想定して、1分間やってみよう。はじめと終わりには必ず深呼吸しましょう。

マタニティ・ヨーガ
マッサージでほぐし合い

 腹式呼吸を練習したあと、少し自分なりのゆったりした呼吸をしながら、あぐらの姿勢で瞑想してもらっている。瞑想といっても難しいことではなく、ただゆったりした気分で座ってもらっているだけだ。この瞑想のときにも、部屋全体の雰囲気がとてもよくなって、妊婦さんとおなかの中の赤ちゃんがつくる場のエネルギーのようなものができ上がっていくように、私には感じられる。

 そのあと一番最後に、私のクラスでは、参加者が2組になってのマッサージを行っている。マッサージは簡単なもので、ひとり5分ほどお互いにやりあうのだが、これが気持ちがいいので実に好評だ。やってもらう人は正座の姿勢で、やってあげる人はその人の後ろに立って、頭から首、肩をたたく。次にやってもらう人は膝を開いて、おなかをつぶさないようにうつぶせの姿勢になり、やってあげる人は後ろから、肩や背骨の両側を両親指でもんでいく。脇腹やお尻も両手の平で押す。

 マッサージは、お産のときにも夫などにやってもらうと気持ちのいいものなので、妊婦さんに覚えて帰ってもらって、家で夫に教えてあげるようにすすめている。マッサージはやってもらって気持ちいいばかりでなく、人のからだに触ることがいい勉強にもなる。力の入れ具合や、相手がどう感じているかを、探りながらやることで、相手に対する思いやりの心が生まれていくような気がする。それまでポーズや呼吸法がうまくできなかった初めての参加者も、マッサージをしてもらうととても気持ちがいいので、最後には満足した表情で帰っていく。ただ、過去に1例だけ、うまく人のからだに触ることができず、マッサージをしてあげられない方がいた。こうしたケースもないわけではないので、指導するスタッフは体操同様に、ひとりひとりを観察しながら、個別に適切な指導をすることが求められる。


































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